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レーピン氏インタビュー通訳とシベリアの思い出

· 通訳,音楽,エッセイ

今日の午後はインタビュー通訳、3媒体3時間。ヴァイオリニストのレーピンさんでした。

10代の頃から来日してらして長年お名前は聞いてましたが、今回やっとお目もじ叶いました。
 

ロシアはノボシビルスクというシベリアど真ん中のご出身なんですが、今回はご自身率いる「トランス・シベリア芸術祭」のお話でシベリアがキーワードだったので、「私、四半世紀前にノボシビルスク行きました!」とお伝えしたら「おお、そんな前に」と喜んで(驚いて?)いただけましたよ(笑)

私のシベリア行きは(って言うとなにごとかという響きですが)、1994年と95年の真冬、クラシックの音楽祭パシフィック・ミュージック・フェスティバルのスタッフをしていた頃に出張オーディションの担当として、レーピンさんご出身であるノボシビルスクに行きました。

ソ連がロシアになったのが91年でしたから、94年はまだまだ大混乱のさなかで、まあ~いろんなものがありませんでしたね。

・列車の駅にしか見えない国内線空港。普通、言葉がわからなくても、空港って絵のサインだけで行くべき場所はわかりますよね。この時のは全然ノーヒントな感じ。

・国内線アエロフロートの機内食は、何十年も使い古されたタッパーのようなプラスチック(これもなかなかすごかった)に乗った「ミイラのような鶏肉」(同僚談)。

・マイナス30℃くらいだったはずの早朝に到着するのに、飛行機からはもちろん建物直結のジャバラは無く、タラップで外へ。寒すぎるでしょ。

・ホテルの部屋から日本に直通電話ができなかったり。オペレーターに申し込んで30分後とか。

・ミネラルウォーター(もちろん高価)は瓶しか売ってなかったり。基本的にモノがない。食料も貧しい感じ。

・トイレットペーパーが硬い、お風呂の水が濁っているのは言わずもがな。

・どこもかしこも、電灯は半分くらいしか点けていない。

などなどそんな感じで「西側」にあるあらゆるものが欠乏していましたが、市長だったかその街の偉いかたを表敬訪問したとき、その長のいらっしゃるフロアだけが赤じゅうたんがあり、ゴージャスだった。

もうね、そのときは必死でしたが、ネタ満載です(笑)

以上が94年。

そして、もうこんな大変な旅は二度と行かない!と言っていたのに、オーディションのスケジュールと我々スタッフの都合で、翌年再度わたくしが行くことに。

そうしたらですね!

もう全てが変わっていたのですよ。

空港が空港らしい! 機内食が機内食らしい!

ミネラルウォーターも食べ物もいろいろある!

ホテルの部屋から日本へ直通電話ができる!(これ感涙)

などなど、前述のこと全てが完全に変わっていました。

たった1年でこの進歩。図らずも、貴重な歴史の転換点のひとつを見ることとなりました。

そんなノボシビルスクを思い出しながらの、レーピンさんとのお仕事でした。

他にノボシビルスクご出身のチェリストの方とのお仕事もあったなあ。

以前の音楽通訳仕事のことはアメブロに書いています。よろしければご覧ください。

http://ameblo.jp/reginacecilia/theme-10062306330.html

stellavoce 高島まき ヴァイオリニスト レーピン氏インタビュー通訳

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高島まきHP http://www.maki-takashima.com/

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全インタビュー終了後、レーピンさんと。